4月が消し飛んだ。

サクラとラタン

4月が消し飛んだ。
違和感を覚えたのは3月の末、年度末の忙しなさもいよいよ峠を越えようかという頃である。
わずか数時間で済むような野暮用さえ終えればこの煩わしさから解放され、気分も新たに令和3年度を迎える運びとなっていたのだが、その野暮用が一向に終わらないのだ。
いや、『野暮用が終わらない』と言うと少し語弊がある。
正しくは『野暮用の終了日が訪れない』のである。
野暮用は限界を試すかの如く薄く、どこまでも長く引き伸ばされ、日程はさながら近づけば消え失せ、遥か彼方にまた現れる心綺楼のように移ろい定まらない。
まるで何か不可思議な力が働いているかのように、数日後に予定されていた終了日が何故か私の預かり知らぬところで数週間後に再設定されているのだ。
その時、実在する架空生物であるが故に、通常の人間よりほんの少しだけその手の感覚に鋭敏である私は勘づいたのだ。これは何らかの存在が時間軸に干渉し、私を終わらない3月に押し込めているのだと。
よくある時空を弄ぶ類の悪戯のであろうと踏んだ私は、鷹揚に構え、ゆるりと成り行きに身を任せることにした。干渉者の気が済むまで付き合ってやれば、何をせずとも時間軸は元に戻るはずだ。
私の読みは的中し、終了日は程なくして訪れ、野暮用は無事完遂された。
これでようやく晴れて4月を迎えられると手帳を確認した私は、まるで死人*1のようにさっと顔を蒼ざめさせた。
なんと、世界は5月になっていたのだ。
ありえないことであった。時空の歪みには幾度も遭遇していたが、一月が丸々消し飛ぶなどと言う体験は初めてだった。儚げな薄桃色だった木々は、今や生命力溢れる緑を誇り、黄金の連休と桜餅は時空の狭間に消え去った。
残されたのはすっかり季節外れになった桜の絵のみ。
桜の絵が完成する頃には現実の桜が散っていたと言う、なんとも寓話じみた話の収まりに、私はただ臍を噬み地団駄を踏む他なかった。
 
そもそも、ラタンチェアへの憧れとガラスカップの魅力に誘われ、この絵を描き始めたのだから、初めから背景に桜など描かず、一般的な緑の木々を描いておけばこんな思いをすることはなかったのだ。
だがそうは言ったものの、幸いにも5月は薔薇の季節。桜もバラ科の植物故、桜の絵も決して季節外れではあるまいと、極めて前向き且つ理性的に判断し、堂々と載せることにした。
 
余談だが私が愛用していたガラスカップは、つい数時間前に重力という名の運命の悪戯により、床の上で無惨にも砕け散った。
この悪戯によっていったいどれほどの人々が尊い割れ物を落としたことだろう。
サイズをあわせて手ずからコースターまで作ったと言うのに、失う時はほんの一瞬、瞬く間に掌から滑り落ちてしまう。大事な食器<モノ>ほど、桜の花弁が如くたやすく落花してしまうのだ。
 
しかして今年の春は目に見えぬ何かの悪戯によって、何かと予想外の事態に見舞われた訳だが、何はともあれ所用はすんだ。5月は気持ちを切り替えて目標に向かって邁進していこうと決意を新たにしたところで大変なことに気がついてしまった。
5月も半分以上消し飛んでいる。

やもりかわいい

腹いせに俳句を認めてみた。 

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*1:アンデッドは死人ではない