あなたが落としたのは金の吸殻ですか?それとも銀の吸殻ですか?

世界名作吸殻劇場(私選)

5月31日は世界禁煙デーに制定されているらしい。
私は喫煙をしないのでタバコ自体にはあまり縁がないのだが、どういうわけか家の周囲でよく吸い殻を拾う。そのおかげで、手をつけられてないスティック状のタバコより、地に落ちてヨレヨレになった吸殻を見る機会の方が多い。
 
あまりに高頻度で見かけるため、最近はこの辺りに野生の吸殻の巣があるのではないかと疑っている。温暖化の影響で数が増えたのだろうか。
それとも、もしかしたら私自身に何か特別な力があり、吸殻が吸い寄せられているのかもしれない。吸殻だけに…。吸殻に優しく接していたらそのうち懐かれて言葉がわかるようになったりするのだろうか。そんなことになったら灰被りと呼ばれフェアリーゴッドスモーカーに灰皿の馬車を用意されてしまう。どうしよう。
 
だが、正直なところ、私はこれをもっと人為的な何かではないかと疑っている。荒唐無稽で誰にも信じてもらえないかもしれないが、ここだけの話『歩きながら吸っていたタバコの吸殻を道の端に投げている』人がいるのではないかと思っているのだ。
ではなぜそのような奇妙な行動をとるのか。
ずばり、それは『とあるきょうだい(成人済)が一定距離ごとに吸い殻を置いて、家に帰るための目印にしている』のだと思う。つまり、私がしつこく片付けてしまっているせいで、彼ら彼女らは家に帰れず同じところをぐるぐる回っているのだ。だから毎度毎度私の家の前に吸い殻を置いているのだ。かわいそう。
本来ならば彼らが吸殻を拾いに来るのを待ってあげるべきなのかもしれないが、生憎私は性格が悪いので、ちゅんちゅんとさえずりながら毎回吸い殻を拾って意地悪をしているのである。

大きなつづらに図書券詰めて

ビッグなミニキャラ

人生は選択の連続である。服の色や今日の昼食といった日常の些細なことから、進学先、就職先や転職、最初の3匹、大きいつづらと小さいつづらなどなど、選ばなければならないことがごまんとあるのだ。
ちなみにつづらの件に関して私はおそらく小さい方を選ぶが、それは何も私が慎ましい性格をしているからというわけではない。むしろ入れ物が小さい方が何となく高いものが入っていそうなどと思って選んでいるくらいだ。さらに小さいつづらは、かさばらない上に、選ぶだけで謙虚さをアピールすることができるため、たとえ中身が期待通りの物でなくとも、好感度が下がるなどマイナス要素が発生する可能性は低い。要はデメリットが少ない気がするのだ。
対して大きいつづらは、中身が欲しくない物であった場合にガッカリするというだけでなく、運ぶ際の苦労、周囲からの悪印象など、単純な2択にしてはこちらのリスクが大きいように思う。あと入れ物を処分する際粗大ゴミとして料金が発生するかもという心配もしている。
以上のように純度100%の損得勘定をした結果の私は小さいつづらを選ぶだろう。最低極まっているが自覚がある分まだマシだと思っていただきたい。*1
 
しかし、この『大小どちらを選ぶのか問題』は、あらゆるものの小型化が進んだ現代においてもなお私の頭を悩ませてくる。
例えば、新しいタブレット端末を購入しようと思った際、ストレージは余裕を持てる大きい物を選びたいが、当然ながら容量の大きさに合わせて価格も上昇してしまうため、一概に大きければ大きいほどいいとは言い難い。出費は小さく収められるに越したことはない。さらに、画面サイズは大きい方が見やすく作業もしやすいため好ましいが、持ち運びを考えると全体のサイズはコンパクトである方が便利だ。これらのジレンマは、タブレットに限らず家電や収納家具などにも言えることである。
つまり整理すると『小ささのメリットと大きさのメリットを同時に得られ、かつ両者のデメリットをうまいこと潰しあった商品』が欲しいわけだ。欲望はXLサイズらしい。
だがそんな都合のいい商品が現れるまでの間、結局は重要視するポイント以外に生じる欠点は、他の部分でうまく補っていく必要がある。
まあ私の場合、器の小ささを態度の大きさでカバーするなどして、まあそれなりにうまくやっている。

*1:原作は多分そういう話ではない

眠過ぎて眠くない時間が眠っている時しかない

春の風

春は何かと不安定な季節だ。自身を取り巻く環境にも変化が生じ、頭を働かせて考えなければならない事柄が増えがちな時期なのだが、春眠暁を覚えずもう永遠に眠い。本当に、切実に眠い。あまりにも眠すぎるせいで自棄になり「『なんとかの考え休むににたり』とか言うし、逆説的に、寝ている間に考えがまとまっていて、全ての問題が一気に解決する素敵なアイデアが浮かんでいるのではないか」などと言うよくわからない発想の元、時間の許す限り惰眠を貪ってみたが、目覚めても特にいい考えは浮かんでいなかった。知ってたが。

まあ問題は放置しても解決しなかった代わりに、冬に植えたきり放置していたチューリップの球根はいつの間にやらしっかり花を咲かせていて、大変癒されたので引き分けといったところか。
 
とにかくひたすらに眠く、まともに頭が働かないので、最近はずっと眠気覚ましとして『慣用句に出てくる花という言葉の後に『粉』ってつけてむずむずする遊び』を一人でしていた。一番痒くなってお気に入りの言葉は『両手に花粉』だった。洗ってきてくれ。
しかし、むずむずするなどとは言ったものの、実際のところ私が花粉によって本当にひどい症状が出ていたのは昔の話で、近頃はなぜだかあまり悩まされなくなった。生活圏の変化などで外的要因が取り除かれたおかげなのか、体質改善など内的要因が解消されたからなのか、前者にしろ後者にしろ、どちらにしても積極的に何か手を講じたわけではなく、只々いつの間にやら気にならなくなっていた。
このような例を見ると、何かしらの悩みや問題に対して、効果的なアプローチが見つからなかったり、今すぐに解決できそうになくとも、時が来れば自ずと解決するという事もなきにしもあらずかと、少し楽観的になれるのではないだろうか。
 
 
ただ、暖かくなって活気付く生き物はチューリップだけではないため、雑草と害虫対策だけは早めにやっておいた方がいいと思う。

料理『は』好き

キッチン

最近何かと菓子づくりの機会が増えている。先週14日のバレンタインデーには、日頃の感謝と深い愛情を込めて菓子を焼き、その焼き立て菓子を間髪入れずに自ら食すというRTAのような行いを嗜んでいた。ちなみにその時焼いた菓子はキャラメルチョコレートバナナパイで、味は決して悪くなかったのだが、肝心のチョコレートに対してキャラメルバナナの比率が大きすぎたせいで、本来主役になるはずのチョコレートが完全におまけ状態になってしまっていた。完成から完食までのスピードも相まって、もはやバレンタインなど関係なくただただ食べたいものを作って食べただけといった様相を呈していた。冷え込みの激しい季節はなぜだか甘いものが体感二割増しで美味しく感じてしまうのだから仕方がない。
 
そんな作って楽しい食べて美味しい一石二鳥のクッキングだが、最後に残された、料理や製菓において避けて通れない地獄の工程がある。
後片付けだ。
バターやクリームでベトベトになったボウル、手際が悪く無駄にたくさん使ってしまったスプーン、焦げ付いたオーブン、そこら中へ飛び散った薄力粉やこぼした卵にミルク。シンクに山と積まれた洗い物は、視界に入るだけで先の幸福感を体感二割ほど削り取っていく。
料理に限らず後片付けに手間がかかる類の作業は、一番テンションの下がる工程が一番最後にやってくるためその行為全体に『面倒』という印象を残しがちで損をしていると思う。何より美味しい部分はすでに終わってしまっているためモチベーションが保ちづらい。調理器具と材料を別レイヤーにして後から材料レイヤーだけ削除とかできないのか。
「その点、絵を描く環境はアナログからデジタルへ移行したことでデスク周りが汚れにくくなり、劇的に片付けやすくなったものだ。」そう言って私はアイコンの散らばったデスクトップとタブだらけのウインドウから目を逸らすのであった。キッチン多少トリムしたやつ

バターの香りで堕天する

逆光

今回のイラストは元々年明け最初の更新用に描き始めたものの、どういうわけかなんとなく邪悪な雰囲気になり、新年早々闇落ちしているのはどうかと思い一旦没にしたものである。しかし、ある程度描き進めてしまっていたため、そのまま放置するのはもったいないと、当初の方向性とは別の路線で完成させてみたのだが、初期段階より格段に闇が深まった。なぜ。これは人類の危機に意気揚々と駆けつけるも一切手は貸さず高みの見物を決め込み終始ニヤついてるタイプの人外。人の一生を娯楽として消費しそう。なんてひどい。

『白服』に『後光』という善の象徴じみた要素を盛り込んだにもかかわらず、表情などの要素と組み合わさることで、狙いとは裏腹に敵性生物感を強める結果となってしまったように思う。こんな風に、それ単体では『良い、好ましい』とされる類の物であっても、時と場合によっては手放しで『良い』と言い難い、それどころか『好ましくない』と類されるものへと転じてしまう例は少なくない。
例えば深夜に焼き上がった出来立ての菓子などがそうだ。
湯気と共に立ち昇るバターの香り、こんがりと狐色に焼けた照りのある表面。普段なら大歓迎のおいしさアピールだが、翌朝まで我慢しなければならない状況においては、まるで視覚と嗅覚の両サイドから力任せに殴りつけられているような心地だ。
思い返せばこの絵の作画中も深夜間食の誘惑と死闘を繰り広げていたので、イラストの人でなし感が深まったのはその影響を受けての事だったのかもしれない。ちなみに勝敗の行方は、味見が間食に含まれるかどうかの判断によるため解釈が分かれるところだ。

全体バージョン

トリミングで椅子とか切れてしまったので全体バージョンも載せてみたが、結局ぼかしかけてるのであまり見えない。

ゆるゆる2022年

ゆるゆるしましま

新しい年を迎えると毎年のように、背筋が伸びるような、襟を正さなければならないような感覚を覚える。寒さも相まって身が引き締まる気がするのだ。しかしその気概は日に日に減衰し、結局長続きした試しがない。それどころか『今年こそしっかり頑張ろう』と例年以上に気合を入れた年に限って、やる気の減少速度が早いのではないかと思えるほどだ。
1、2月はそれなりに気を引き締めて生活しているものの、3月あたりから徐々に息切れし始め、4月は新年度の慌ただしさにただただ振り回され、死に体で連休までたどり着くも休み明けには五月病を患い、6月にもはやその年の折り返し地点まで来てしまったという事実を突きつけられ、焦燥に駆られ諸々の立て直しを図るも、その後やってくる夏の暑さで完全にとどめを刺されるのが一年のルーティンになりつつある。かわいそう。
今年こそ、この悲しき輪廻を断ち切るべく、私はとある作戦を編み出した。
『逆にしっかり頑張ろうと思わない作戦』である。まさに逆転の発想。
これは年初めに御大層な目標を掲げ、必要以上に、そして無意味に張り切る事で、ただでさえ人より少ない体力と気力が過剰に消費され、その消費スピードに焦ることでさらに無駄なエネルギーを消費し、結果的に枯渇させてしまうという問題を解決することができる画期的な作戦である。気負い過ぎずに肩の力を抜いたほうが物事がうまく運ぶこともあるということだ。2022の中に3つも含まれている『2』の文字もなんとなくぐんにゃりしているし。今年はきっとゆるゆる推奨なのだ。
よって今年は特に一年の抱負などは掲げないことにするし、当然去年の目標が半分も達成できていないことなども特に振り返らないし反省もしない。
 
 

プレゼントはセルフで

スノードーム

イルミネーション、チキンにケーキ。クリスマスの楽しみは数あれど、真っ先に思い浮かぶものはやはりプレゼントである。『クリスマス当日目が覚めた時、枕元に見知らぬ箱が置いてある』というあのシチュエーションに心が躍るのだ。
しかし何故か、我が家には近年サンタクロースからのクリスマスプレゼントが来ていない。どういうことだこんなにいい子なのに。年齢制限があるとの噂もあるが、もしそれが本当ならばその制度は些か旧時代的すぎるのではないか。
 
しかし何事も他人に期待しすぎてはいけない。サンタクロースが来ないと言うのならプレゼントは自分で用意すれば良い。一年間頑張った自分への慰労、所謂ご褒美というやつだ。
そもそも『プレゼント』というものは、いただいて嬉しいのはもちろん、誰かに贈ることで得られる幸福感も醍醐味の一つである。相手の喜ぶものは何かと頭を捻り、いくつもの商品を比べ、ああでもないこうでもないと予算内で気の利いた品を探す工程は案外楽しいものだ。自分で自分へプレゼントをすると言う行為は『もらう喜び』と『贈る喜び』を両立させる事ができて一挙両得なのである。
 
さて、せっかくのプレゼントならば、手に入れて「はいおしまい」では味気ない。
リボンをかけたり包装紙で包むなど、自分宛だからと怠らずにラッピングを施すと、より一層プレゼント感が出て素敵だ。もちろん購入時にプレゼント包装のオプションをつけても良い。「どうせすぐ自分で剥がすのに自分で包むの虚しくない?」との声もあるだろう。その意見はとてもよくわかる。だがこのラッピングは単純に見栄えが良くなるという利点だけでなく、包装用紙を剥がす時のワクワク感を味わうために必要なものなのだ。
さらに受け取り方も工夫すると、よりプレゼントをもらった時の喜びを味わう事ができるはずだ。やり方は簡単。寝る前に先ほど包装したプレゼントを枕元に設置し、そのまま一晩眠るだけ。翌日目を覚ますと、なんと不思議なことに枕元にプレゼントが置かれているではないか。まるで冒頭に書いたシチュエーションを誰かが再現しようとしたかのようだ。あとは心の赴くままワクワクしながら開封しよう。
 
ちなみに、忙しくて自分用のプレゼントなど買う暇がないという場合は、普段使ってるスマホやメガネを包装し、プレゼントとして枕元においておくと良い。
翌朝目が覚め、手にとったクリスマスプレゼントは驚くほど、そう、まるで昔から自分のものであったかのようにしっくりと手に馴染むだろう。