星空と空想と浪漫

星空と空想とロマン


『宇宙は真空である』と言われているがそれには異議を唱えたい。なぜなら宇宙には、尋常ならざる質量の浪漫が詰まっているからだ。
人々は昔から星に願い、未来を問い、神代の物語を見出してきた。それは宇宙に、何らかの不可思議な力やら抗い難い魔性がある証左に他ならないのではないだろうか。私が先の七夕、思わず遅筆が治るように願を掛けてしまったのも、その魔力のなせる技であり当然の成り行きであったのだ…などと、空想を生み落としては一人で納得する、俗に言う『ウロボロス行為』を行いながら、口元に三日月を描いて過ごすのが私の日常である。ところで、願掛けは少々時差があるようでまだ効果は出ていのだが、いつ反映されるのだろうか。なるべく早い方が嬉しいのだけれど。
 
本題に移ろう。
時折見かける『夏の行楽に選ぶならば海か山か』という質問、せっかくならば追加の選択肢として『天の川』を加えてみてはどうだろうかと常々考えている。
「何を現実味のないことを」と失笑を買うことは想像に難くないが少し待ってほしい。そもそもこの質問は『仮定』であり『行く予定のある場所を選ぶ質問』でも『選んだ場所に必ず行かなければならない質問』でもない。よって『行く予定は全くないけど、面白そうなのは〇〇』という答え方も想定されている。さらに突き詰めると『行ったことはないがイメージで好きな方』つまり『想像上の海や山』を選ぶことが許された質問なのだ。そしてその『想像』の精度であるが、アウトドアに馴染みのない私のような人種とっては、天の川も海も山も等しくファンタジーであり異世界であり、写真や話に聞いた印象、もしくは至極少ない経験を膨らませて想像するしかない存在なのである。 
 絵に描いた『餅』が『味噌汁』に変わったところで、屏風の『虎』が『龍』に変わったところで、果たして意味や本質は変わるだろうか。『海か山』が『海か山か天の川』になるなどその程度の差でしかないのである。
というわけで、早速だが天の川でできることを考えてみた。まず、天の川は金槌であっても溺れる心配をせず立ち入ることができる。釣り糸を垂らせば不老不死の宇宙魚が釣れ、銀河の海から長い旅を経て流れ込んだ川底の石は、角の削れた丸い形にふさわしい、優しい輝きを内側から溢れさせている。遊び疲れたら川辺で宇宙蛍の舞踏会を鑑賞しながらのディナーを楽しみ、土産にはほのかに光る宇宙金平糖を買って帰るのだ。何より厳しい日差しを避けながら外遊びができるという点が素晴らしい。そう言った意味で、星空や宇宙は私のような夜行性生物との親和性が高いのである。
天の川、なかなかどうして、竜の眠る山や人魚の神殿がある海にも引けを取らない行楽地ではないだろうか。 
 
しかし、ここまで書いてきた宇宙はどれも『鑑賞』であったり『非日常の体験』といった『外から』の視点で見つめた物だったが、仮に宇宙に居住することになった場合のことも少し考えておこう。
昼夜逆転生活でも『負い目を感じる必要性』と『郵便局が閉まっていて悲しい思いをすること』がなくなるであろうという利点は即座に思い浮かぶのだが、普段の生活自体はどうだろうか。おそらく、空調の効いた部屋で、勝手に空想を生み落としては一人で納得し、妄想の尾を食む日常を送るのだろうと思う。